お皿が下げられジャスミンティーとコーヒーが運ばれてきた。
ユウさんは一口味わうとカップを殊更丁寧に置き、
「今日が最後なので、何を話そうか、本当に迷いました」と話し始めた。
「今から三ヵ月前、私は迷っていました。
これからどう生きていこうかと。
以前お話ししたように私の性格上、同僚や友人には相談できず何の迷いもなく生きているように振る舞っていました。
実際の私は迷子のように心細く、泣き出したいような心境だったのに……。
それでも何とか一人でこの壁を乗り越えなくてはならないと思い、心と頭を整理して今の私に必要な情報を収集し、やっとの思いで一つの道を見つけることができました。
その道を進むしか考えられないし進むだろうとは思ってはいました。
でも、その道を進むにはそれ相応の覚悟が必要でしたしとっても不安でした。
慣れ親しんだ生活を切り捨てなくてはなりませんでしたから。
その不安を紛らわすように情報収集という名目で惰性に流されるまま、インターネットをしていたある日のことでした。
いまこの時、頑固な私がプライドの鎧を脱いで、お話しする場を得ることができることになった、座る人を偶然知ることとなりました。
私が私らしく話すことのできる、リョウさんとの出会いの機会を得ることができたのです。
自分でも驚くような行動『座る人』リョウさんへのメールで、あの一歩で、私はほんの少しかもしれませんが変われたと思っています。
今までより人に優しくなれるようになりました。
こうでなくてはならないと正論を振りかざして、他者とぶつかる機会が減りました。
それは一部ではあったとしても、リョウさんに私の弱さ、本当の自分を話すことができた事と、そのことで得られた安心感から未来の道への決断が自身の中で明確化されたからだと思います」
そう言ってユウさんはジャスミンティーを口にした。
そして一呼吸置き、目を伏せて一度小さく頷いた。
顔を上げて再び僕を真っ直ぐ見つめると、
「食事をしながら考えていたのですが、やはり今日はお茶を飲み終えたら終了にしたいと思います。
リョウさんの折角のご厚意を無下にするようで申し訳ないのですが、よろしいですか?」
とユウさんは言った。
僕は「えっ?」という表情を浮かべ腕時計に目をやった。
まだ40分程しか経過していなかった。
今回は僕が早めに到着してしまった20分+正規の契約時間である60分で、80分座るはずだった。
僕は小首を傾げ疑問の視線をユウさんに送った。
僕の心情を察したユウさんは、
「最後だからと言ってリョウさんに甘えてはいけないと思ったんです。
早く来てしまったのは私の勝手です。
リョウさんが早く到着されたことを理由に、私の我儘のいい訳にはしてはいけないと思ったんです。
それに……この座る人を、私自身の中できちんと終わらせるためにも、契約は守りたいと思うのです。
頭の固い朴念仁でごめんなさい」といって頭を下げた。
ユウさんらしいと思った。
その中に否定的な感情は無かった。
素直にそう感じた。
そして僕自身も座る人になれ合いを加味してはいけないと反省した。
僕はユウさんが顔を上げるのを待ってゆっくりと首を左右に振った。
「ありがとう」と言ってユウさんは微笑んだ。
僕も微笑みを返した。
それから僕たちはジャスミンティーとコーヒーをゆっくりと飲み、気まずさのない無言の時を過ごした。
一口先に僕がコーヒーを飲み終えユウさんを待った。
ユウさんはそっとティーカップを置くと、
「じゃ、出ましょうか」と言った。
僕は頷き二人は鞄を手に立ち上がった。
会計を済ませて店の外に出ると、
「今まで本当にありがとう。お元気で。さようなら」とユウさんが言った。
僕は最後に『話したい』と思った。
「有難うございました」と。
がだそれは決してユウさんの望むことではないだろう。
僕が言葉を発した途端にこの穏やかな関係は破綻してしまうだろう。
話したいと思うのは甘えだと自身を律しその言葉を胸の中に飲み込み、感謝の思いをこめて頭を下げた。
ユウさんはくるりと背中を向け駅に向かって歩き出した。
その歩調はしっかりとしていて迷いが無かった。
僕はユウさんの凛とした背中をこれが最後なのだと確認しながら見送った。
背中が人ごみに紛れ完全に見えなくなったのを確認すると、レストランの斜め向かいにあるコーヒーチェーン店に入った。
アイスカフェオレを購入し窓際に設置されたカウンター席に座った。
そこから僕とユウさんが座っていたレストランの窓とテーブル席が見える。
カフェオレを飲みながらタバコを吸いぼんやりと眺める。
ユウさんは座る人初めての依頼者だったこと、不審者と疑われてもおかしくない僕に対して礼節のある対応をしてくれたことなどを思い返した。
初めての依頼者がユウさんで本当に良かったと思った。
そのユウさんと逢うことはもう二度とないだろうと思うと、体の芯がじんわりと痺れるような感覚がした。
久しぶりに感じる感覚だった。
淋しさ、悲しさ、に似ている。
だけれどもそのカテゴリーに簡単には収めることができない感覚だった。
この気持ちは何だろうと暫く考えた。
そして一番近いのは『懐かしさ』なのかもしれないと思った。
その席でタバコを3本吸い一時間ほど過ごした。
それでもなんとなく立ち去りがたかった。
ユウさんとの座る人の関係はもう終了したのだ。
過去にすがるのは甘えだと叱咤し席を立った。
黄昏の街、駅へと向う人の流れに紛れ込む様に家路へと付いた。