第三十三話

小説「beside-座る人」:第三十三話

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「すみません遅れてしまって」

背後からの声に驚いて振り向くと蒼さんが息を切らして立っていた。

別れを決断した女性

 

僕はすかさず蒼さんの背後に人影ない事を確認した。

蒼さんの様子を不審に思った彼が後を追ってきて、揉め事に巻き込まれるかもしれないと思っていたからだった。

だがそれは小心者の思い過ごしだった。

 

「今回も約束を守れなかった……ダメだな、私って」

腕時計に目を落とす。

18時33分。

遅刻とは言えない時間だろうと僕は思っていた。

 

「遅れてきたくせに申し訳ないんですけれど、時間が無いのであちらに移動しましょう」

そういうと蒼さんは背中を向け、夜景パノラマの広がる方へと歩き出した。

港の見える丘公園から見える夜景

 

恋人達で埋め尽くされたベンチの間を抜ける。

僕は牽引される車のようにその後について行った。

 

蒼さんは海の方を向いて柵にもたれかかった。

そして「5分だけ、私の話を聞いて下さい」と言った。

僕も柵にもたれ掛り頷いた。

 

「ここは彼と初めてデートをした場所です。

だからここでリョウさんに報告したかったんです。

ここにはもう二度と来ることはないですから」

蒼さんの言葉が詰まった。

唇が震えている。

 

僕は視線を逸らし、眩い夜景の下に広がる黒い横浜港に目を落とした。

港の見える丘公園 夜景 黒い港

 

しばらくの沈黙の後、蒼さんは再び話しはじめた。

 

「彼と別れてきました。

携帯番号・メールアドレスを変えた事、アパートは先週引き払ってしまっている事、明日、彼も知らない実家に帰ることを話しました。

彼は黙って聞いていました。

一言も話しませんでした。

エグゼクティブ

 

それは今までみたいにそんなことを私が言っても、結局その場から立ち去ることができずに時間を過ごして、感情が静まり、決意が曖昧になると思っていたからだと思います。

だから私が立ち上がった時、彼は驚いた顔をしていました。

立ち上がるまで今回も時間がかかってしまって、リョウさんとの約束の時間を守れなかったけれど、私、別れてきました。

これで本当に本当に最後です」

 

そう言って口をつぐむと蒼さんは黙って泣いた。

人はこんなに涙を流せるものなのかと驚くぐらいに、滔々と涙が溢れ出ていた。

滔々と流れる涙

 

僕は今までの人生において蒼さんのように強く他者を愛したことはなかった。

恋愛感情といえるかは定かではないけれど、特定の女性に対して特別化する思いを抱くことは何回かはあった。

だけれどその思いを相手に伝えることはなく全て自己完結していた。

 

それは僕の思いを相手に伝えて拒否されたときに傷つくことを恐れるという事以前の問題だった。

相手に思いを伝えるという行動自体が怖かったのだ。

 

他者と心の距離が近くなることが怖かった。

心を開くという事が出来なかった。

他者との心の距離が近くなり、僕の心の中に踏み込まれるという事を拒絶していた。

心を閉ざす男性

 

それはどうしてなのか。

あの喪失感味わいたくはない。

結局は傷つくこと、煩わしい事、辛い思いをすることから逃げるという事が、他者との心の距離を置くという行動の根底にあるからなのかもしれない。

 

他者と深くかかわらなくても生きていける。

僕の人生を他者の干渉によって邪魔されたくはなかったのだ。

だけれどそのように生きることは、淋しい事ではないのかという思いも確実に心の中に存在していた。

 

しかし両親の死後ずっと一人で生きてきた僕には、この生き方以外どうやって生きればいいのか、その方法が分からなかったのだ。

こんな僕には蒼さんのように他者に対して強い思いを寄せ、振り回され、煩悶するような行動は不思議ですらあった。

恋に焦がれ煩悶する女性

 

でも心のどこかでは、蒼さんの方が人間らしい生き方ではないのかという思いがあることも否めなくなっていた。

文子さんとの時間、文子さんとの別れ、座る人での他者との出逢いと経験が、止水のような僕の心に小石を投じ波紋を作り出していたのだった。

 

「ごめんなさい。もう時間ですね。お帰り下さい。有難うございました」

18時40分。

蒼さんは涙をハンカチで抑えながら努めて気丈な声を装いそう言った。

 

心が揺れた。

もう少し蒼さんの傍にいることが、座る人の役目なのではないかという思いがあった。

ベンチに座る人

 

それは蒼さんがそれを望んでいるのではないか、一人になりたくないのではないかと思ったからだった。

 

またその反面そうすることによって、僕自身の心に何か変化が起きる事、今までの自分には足りなかった何かを見つける足掛かりのようなものを得られるかもしれないという利己的な思いもあった。

 

だが僕の逡巡とは裏腹に蒼さんは、

「私、大丈夫ですから。絶対に、大丈夫ですから」

と強い意志をぶつけるようにそう言った。

 

僕は頭を下げ背中を向けた。

展望台の出口に向かって歩き出す。

だがどうしても気になり振り返った。

 

蒼さんはもう柵の所にはいなかった。

僕とは反対に方向に向かって歩き出していた。

蒼さんの背中から視線を離し夜景に目を移す。

 

先程はじめて展望台に来た時に感じた美しさとはとは違う、切なさを装い僕の心に映った。

僕と蒼さんとの座る人の関係が終了した。

 

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