父の七回忌。
その酒席で文子さんが生きていることを知った。
文子さんが家からいなくなって以降、両親の口からは文子さんの名前は一度も出たことが無かった。
幼かった僕にも、文子さんの事は口にはしてはいけないのだという空気がピリピリと伝わっていた。
その理由は分からなかった。
何故口にはしてはいけないのか。
心の中で両親に対して問い続けていても、それを実際に口にすることは出来なかった。
薄氷のような危うさで保たれている家族の安寧が、文子さんという言葉の一石を投じることで粉々に砕け散ってしまうように感じていたからだった。
文子さんはどこかの病院で亡くなってしまったのだという形で、無理やり気持ちの整理をつけていた。
父は三人兄弟の長男で、二歳ずつ離れた弟が二人いた。
次男の文雄叔父さんが叔母さんたちに止められているにもかかわらず話し出した。
「これからどうする。正直、お袋の個室料金をこれ以上払い続けるのは厳しいぞ」
「いや、だから兄貴、今日は止めとこう。また今度にしよう」
三男の正弘叔父さんが僕の様子をちらりと窺って、話の流れを変えようとした。
文雄叔父さんはそんなことはお構いなく話をつづけた。
「先延ばし先延ばしできたからこうなっているんじゃないか。長男が今年大学に入る。
私立だから学費がバカにならない。家のローンだってある。いい加減、限界なんだよ」
文雄叔父さんは酔うとお金の話をし出す。
シラフの時は当たり障りのない冗談しか言わない人なのだが、アルコールが入ると本性が顔をのぞかせるようだった。
これは前からで嫌な感じがしていた。
それをいつも話題を変えて、違う方向に持っていこうと気を使うのが三男の正弘叔父さんだった。
今まではその気持ちのよくないやり取りに烏龍茶を飲みながら耳を傾け、時が過ぎるのを待つだけだった。
だが今回は違った。
文子さんの話をしている。
文子さんが生きているのだ。
心がグラリと音を立てて動揺した。
「嫌だな、いつもいつも」
と言って正弘叔父さんの長男、一雄君が僕の隣の席に座った。
そして手酌でビールをコップに注ぎ一気に飲み干すと、
「亮さん、煙草吸いに行きましょうよ」
と言って僕の肩をたたいた。
黙ってうなずき、雄一君の後をついていった。
「俺、文雄叔父さんの酔うと金の話をするところ、もううんざりなんだ」
僕はうなずいた。
「いつもうちの親父が止めに入って喧嘩になりそうになって、叔母さんたちが騒ぎ出す。
綾子叔母さんの本当に申し訳なさそうな姿も観たくないんだよね。よく離婚しないと思うよ、実際」
「あの、さっきの話、文子さんのことだよね? 叔父さんたちが、お袋って言ってたから。そうでしょ?」
文子さんに関する複雑な諸事情という現実をすり抜け、僕の気持ちはその一点に注がれていた。
「あ、うん。そうなんだ。実は半年ほど前にも文雄叔父さんが家に来て、同じような話をして、同じような展開になったんだ」
「そう。で、文子さんはどこにいるの?」
「え? あ、知らないの? やっぱり知らされていなかったんだ……」
文子さんは僕の家から病院に入院したのではなく、正弘叔父さんの家に行ったという事。
そして次第に物忘れや徘徊などの認知症状が進み、老人ホームに入所することになったこと。
個室料は4人部屋に比べて、非常に高額であること。
次男の文雄叔父さん、三男の正弘叔父さんそれぞれに家庭の事情があり、個室料を払い続けることは厳しくなってきているのだという話を聞いた。
「そうなんだ」
「文子さん、四人部屋になると思う。文雄叔父さんがもう払えないって言ったら、それまでだから。それに、実際うちの親父も厳しいと思う。亮さんは反対?」
「いや、僕に意見を言う資格はないから。一銭も払ってないわけだから。四人部屋になるのはしかたがないことなんだよね?」
「うん、そうだね。この前、久しぶりに文子さんの面会に行ってきたんだけれど、文子さん、もう……なんていうのかな……抜け殻みたいになっちゃったっていうのかな……」
「え? どういう事?」
「文子さん、もう、何もわからないんだと思う。多分」
「どうして?」
「ずっと寝てるし、食事も自分では食べられないし……」
想像がつかなかった。
文子さんがどうなってしまったのか。
戸惑いに沈む僕の心情を察し、一雄君が、
「亮さんも面会に行く?」
と言った。
僕はスマホに文子さんの入所している施設の名前と住所をメールで送ってもらった。
>>「beside-座る人-」 第三話