翌週の日曜日。
5時に目が覚めてしまった。
仕方なく早目の朝食を食べ、洗濯と部屋の掃除をして時間を潰してから文子さんの入所している施設に向かった。
その施設は老人保健施設というものだった。
施設はJR中央線に乗り三鷹駅で降りてバスに乗り、15分程のところにあった。
施設は3階建てで横に長く一見ホテルのような感じだった。
建物中央にある正面玄関の自動ドアを通り施設内に入ると、すぐ左手に事務所受付がある。
パソコンに向かっていた女性に文子さんに面会に来た趣旨を伝えると、部屋番号を教えてくれた。
エレベーターを使って上がってくださいと言われたためそちらに向かうと、エレベーターの向かい側の壁に施設案内の看板が掛かっていた。
1階は通所デイケア、2階、3階は入所棟と書かれていた。
3階でエレベーターを降りると左右に廊下が伸びている。
その廊下の両側に引き戸式のドアが等間隔で並んでいて、何処となくよそよそしい感じのする風景が広がっていた。
廊下にはチノパンにポロシャツを着た職員と思われる人達が、忙しそうに歩き回っていた。
エレベーターの左側にナースステーションが隣接していて、廊下を挟んだ向かい側が広い空間になっている。
そこにはテーブルとイスが並んでいて、お年寄りの方々がぽつぽつと所在無げに佇んでいた。
事務所で教わった部屋番号を探そうと、とりあえずナースステーションとは反対側の廊下に向かって歩き出した。
それぞれのドアの横に部屋番号と、その部屋に入られているお年寄りの方々のネームプレートが張られていた。
そのネームプレートの上に、チカチカと赤く点滅するライトのようなものがついていた。
それが点滅すると職員の人がその部屋の中に入っていく。
そのライトのようなものはナースコールと連動しているようだった。
ナースコールと思われるメロディーが流れるとチカチカと点滅。
すると介護職員の人たちが急ぎ足で僕の横を通り過ぎる。
その様子は頻回に繰り返される。
文子さんの部屋を探しながら初めて体験する慌ただしい雰囲気に、僕はきょろきょろとあたりを見回していた。
そんな様子が挙動不審に映ったのか、「ご家族様の方ですか?」と、背後から声かけられた。
振り返ると介護職員と思われる女性が立っていた。
「あ、はい。あの、高島文子はどちらのお部屋でしょうか?」
「高島さんでしたらこちらですよ」
そういうとその女性は、ステーションを挟んで反対側の廊下に向かって歩き出した。
歩調が速く、途中すれ違った職員に仕事の指示を出すなど、所作はきびきびとしていた。
「こちらです」廊下の突き当たり左側の部屋の前に到着すると、その女性は部屋の奥を示して言った。
「有難うございます」
「では、失礼します」
頭を下げると向かいの部屋のチカチカと点滅するライトの下のボタンを押し、その部屋の中に入っていった。
四人部屋の窓際。
向かって右側が文子さんのベッドだった。
人が寝ている。
それは文子さんなのだ。
そう分かっていても、いや、分かっているからこそ、僕はすぐにはベッドサイドに歩み寄ることができなかった。
部屋の中はとても静かで、ナースコールと廊下を足早に歩く職員の足音がかすかに聞こえた。
このまま立ち尽くしていても意味が無い。
大きく息を吐き、文子さんの枕元に歩み寄った。
仰向けに寝ていた。
目を閉じかすかに唇が開いている。
文子さんだ。
僕の記憶より一回り小さくなった文子さんが、僕の目の前に寝ている。
「文子、さん……」
寝ている文子さんを起こしては悪いという思いと、文子さんが何もわからなくなってしまっているという事が本当の事なのかを確かめたいという思いに揺れていたためか、掠れるような小さな声で呼びかけた。
文子さんに反応はなかった。
もう一度、今度は耳元で少し大きな声で呼びかけた。
「……」
やはり反応はなかった。
ただ寝ているだけで、耳が遠くなってしまったから聞こえないのかもしれない。
そう自分に言いきかせ、ベッドサイドに置いてあった丸椅子に腰かけた。
窓の外はとてもいい天気だった。
大きな窓にはレースのカーテンが引かれ、優しい光が部屋の中を満たしている。
あらためて文子さんの顔を見つめた。
しわが増えている。
以前から白髪が多かったが、今は真っ白だった。
表情は静かという表現が近かった。
文子さんが目を覚ましたら久しぶりに会う僕に驚いて、大きな声を出してくれるのではないかと思った。
と同時に、文子さんは何もわからなくなってしまっているのだ。
その現実を受け入れていかなくてはならないのだ、という思いとが混沌と渦巻いていた。
僕は文子さんの隣に座っている事しかできなかった。
一時間ほどの時が流れた。
文子さんは目を覚まさず、僕も声はかけなかった。
「失礼します」
僕を案内してくれた先程の女性が部屋に入ってきた。
「高島さん、これからお昼ご飯になるので、食堂に移動して頂いてもよろしいですか?」
「はい」
「では、車椅子に移乗します。高島さん、お昼ご飯なので起きましょうね」
そういうと手際よく文子さんをベッドから起こし、車椅子へ座らせた。
その間、文子さんは自身で体を動かすことはなかった。
「ご家族の方はどうされますか?」
「え? えっと……」
「私がお連れしてもよろしいですか?」
「はい。よろしくお願いします」
「分かりました。では、高島さん、食堂に移動しますね」
そういうと車椅子を押しながら部屋を出て行った。
車いすに座った文子さんは目を開いていた。
だがその視線は僕を通り過ぎていた。
今日はこれで帰ろうと思いエレベーターの方に歩いていくと、食堂のテーブル席に座っている文子さんの姿が見えた。
僕は何故か隠れるように壁に寄り添い、文子さんの様子をうかがった。
エプロンのようなものを首から掛けている。
隣に座っている介護職員の人や、他のお年寄りの方と話す様子は見られない。
ぼんやりと前を見つめじっと座っている。
間もなく食事が運ばれてきた。
目の前に置かれている食事に自ら手を出して食べようとする様子は見られない。
隣に座っている介護職員の人がスプーンに掬った食事を口の中に流し込むように入れると、文子さんは機械的に口を動かしゆっくりと飲み込む。
パターン化された動きのようにその動作は繰り返される。
その光景は食事を楽しみながら味わうというよりも、燃料を体内に入れる作業というような感じだった。
文子さんの現実を目の当たりにし、僕は逃げるようにその場を後にした。