サングラスの瞳が僕の表情を窺った。
僕は黒いガラスの向こう側を見つめ返した。
Travis氏は僕から太宰治へと視線を移し、次にカウンターのチャーリー・チャップリンへと視線を落とした。
グラスを手に取り、渇いた喉を潤すようにカクテルを飲み干すと、また同じものを注文した。
そして煙草に火をつけて深く吸い込み大きく煙を吐いた。
この一連の動作は次の話をするための儀式のように僕には感じられた。
カクテルが運ばれてくると今度は一口だけ口にし、再び話し出した。
「離婚後、かれこれ10年近く一人で生きています。
一人が好きだと言っても、孤独の辛さを感じることはあります。
だからこうやってリョウ君に座る人を依頼しているわけですからね。
50を過ぎたオジサンなのに面倒臭い人間なんですよ、僕は。
でね一人で生きていて、特に辛いと感じる事なんですけれどね、それは、悲しい事や苦しい事があった時ではないんですね。
その時ももちろん一人で乗り越えなくてはならない辛さはあるんですが、もっと辛いのは、嬉しい事があった時なんです。
嬉しさを共感してくれる人が誰も居ない。
舞い上がる気持ちが孤独という天井にぶち当たってしまう。
するとですね、嬉しさという大きなエネルギーが僕の中で膨れ上がって、抱えきれないほど大きくなって、今度は辛くなってしまうんですね。
嬉々とした感情をぶつけるところが無くて、苦しくなってしまうんです。
これは辛いです。
とても苦しく悲しい事です。
だって本来は喜び合って幸せを感じられることであるのに、一人であるが故にプラスの感情がマイナスの感情に逆転してしまうんですから。
これはなんとも遣り切れない。
10年間一人で色々な感情を処理して一人に慣れてきました。
ですがこの嬉しさのやり場がないと痛烈に感じた後に感じる寂寞とした孤独感は、いまだに慣れることができません。
でねお説教をするわけでは全くないのですが、もう少し僕の話を聞いて下さいね。
あのですね、リョウ君がこのように座る人をやろうと思ったその根底には、きっと生き辛さがあると思うのですね。
それは間違っていたら大変申し訳ないのですが、僕に近い生き辛さ、一人で居たいと思うけれども一人には耐えられない生き辛さなのではないのでしょうか。
もしそうだとしたらね、僕の轍を踏むような生き方は決してしてほしくないのです。
三回しか会ったことがないのに、そして、これからもう会うことが無い人に対して言うような事ではないのかもしれませんが、本当にそう思うんです。
おそらくこれから先、僕は再婚することなく一人で生きていくと思います。
再婚したくないわけではないのですが、また同じ失敗を犯してしまうのではないかと思うと怖いんです。
それに異性と出会い、一から関係を築きあげていくことに今更感を抱いてしまうというか、面倒になってきてしまってるというか……いや、本当はただ単に、傷つくことから逃げてしまっているだけなのか……自分自身でもよく分かりませんが、僕自身の選択による結果、一人で生かざるを得ない人生を歩んでいってしまいそうなんです。
僕は生まれてくる時代を間違ってしまったのか、生まれてくる国を間違ってしまったのか、それとも、生まれてこなかった方が良かったのか……でも、リョウ君はまだ若い。
おそらく僕の半分も生きていないんじゃないかな?
今からでも全然遅くない。
もし、もしもね、一人で生きていこうなんて思っているんだったら、それは絶対にダメだ。
人と出逢って下さい。
人を愛してください。
座る人を決行するのって、大きな勇気が必要だったと思います。
きっとリョウ君も大きな人生の壁にぶち当たって、もがき苦しんだ結果の一つが座る人なんでしょう。
でね、その先のもう一歩を踏み出して下さい。
その結果がダメでも、一度や二度の失敗で決してあきらめないでください。
あなたはまだ若いのだから。
でも、でもですね、時の流れはあっという間です。
光陰矢の如しです。
リョウ君の座る人に救われている僕が言う科白ではないのですが、リョウ君自身の話を傍らに座って聞いてくれる人を、これからは探して下さい。
酔っ払いの戯言と思われてしまうかもしれませんが、これは僕の切なる願いです。
リョウ君、あなたには是非とも幸せを掴んで頂きたい。
悲しみも喜びも共感し合える相手と出逢い、その人を一生大切にして頂きたい。
本当にそう思っているのです。
本当に」
話し終えるとTravis氏は急いでタバコに火をつけ、盛大に煙を吐いた。
そして再びカクテルを飲み干しまた同じものを注文した。
それは話の後半やや感情的になってしまった自分を、恥じているしぐさの様に見えた。
以前から感じてはいたが、Travis氏は淋しくしょうがない人であるのだと思った。
だが嫌悪を感じることはなかった。
むしろ安心感に似た居心地の良さを感じていた。
だがそれは、僕と氏との座る人と依頼者という関係だからこそなのだろう。
家族や友人として深く付き合うには、さまざまな面倒臭さを抱える覚悟が必要なのだろう。
カクテルがTravis氏の前に置かれた。
それには口をつけずに、
「お酒の力を借りてしまいましたが、最後に話したかった全ての思いを吐き出すことができました。
リョウ君には迷惑だったと思うけれど気持ちが楽になりました。
有難う。
で、ですね、いい感じで終わりにしたいと思いますのでこれでお開きにしましょう」
言葉を受け同感の頷きを返した。
ズボンの後ろポケットから財布を取出し、烏龍茶代を払おうとすると、
「別れの盃代、無用です」
と言って手で制した。
椅子から降り、Travis氏に小さく頭を下げ別れの挨拶をした。
背中を向けて歩き出そうとしたとき、
「太宰がぼやけて見える。今日は酔いが回るのがはやいようです」
という氏の言葉が聞こえた。
振り返るとサングラスは太宰治の写真に向けられ、右手は僕に向かって振られていた。
店を出ると駅には向かわず夜の銀座の街を目的なく歩いた。
気の向くままに適当な路地に入った。
迷ってしまうかもしれないと思った。
だがそれもまた良しと思っていた。
徘徊しながらTravis氏の言葉を断片的に思い返していた。
そして不器用な熱さと優しさの籠った言葉を最後に聞けたことを、僕は心のどこかで感謝していた。
その自分の感情、心の動きに、僕自身が驚いていた。
歩き疲れ考え疲れてから銀座駅へと向かった。
東京メトロ銀座線で神田駅に向かいJR中央線に乗り換えた。
下り電車は運よく座ることができた。
座る人はTravis氏の依頼を最後だと決めていた。
座る人をやり終えたという充実感と、終ってしまったのだという淋しさとが混沌として心を満たしていた。
その気持ちを整理しようと今までの依頼者の事を思い出しているうちに、全身が軽く痺れるような心地よさに包まれ眠りの淵へと落ちて行った。