二人目の依頼者:Travis氏 3回目
Travis氏が最後の座る場所に指定してきたのは銀座のバーL。
時間は17時。
『時間厳守でお願いします』と書いてあった。
僕は今までTravis氏にはもちろん、その他の依頼者に対しても遅刻をしたことはなかった。
僕の人生において遅刻したという記憶はゼロに等しかった。
遅刻をしたという明確な記憶がないのだ。
両親は真面目を絵に描いたような人で、こと時間に対しては厳守するようにと教育されていた。
厳しく怒られるようなことはなかったが、とにかく時間は守るようにと繰り返し話され、身に染み込まされていたのだ。
なのでこのように書かれることは心外だった。
だが敢えてこう書くにはそれなりの理由があるのだろうと思い直し、自身を宥めた。
今回も新宿であろうと思っていたので意外だった。
僕は東京に住んでいながら、銀座に行ったことが無かった。
お洒落で物の値段が高い街。
そこに興味が無いため僕には無縁の街だと思っていたからだった。
JR中央線神田駅で東京メトロ銀座線に乗りかえ、銀座駅で降りてB6出口をでる。
ハイセンスな街が目の前に広がり、土曜日という事もあり華やかな人たちが通りを闊歩していた。
このような状況にやや気圧されながらも、プリントアウトしてきた地図を手に並木通りを進み画廊脇の路地に入り次の路地を右に曲がると、バーLの赤い看板が見えた。
その看板の下にサングラスをかけたTravis氏の姿を見つけた。
腕時計で時間を確認する。
16時33分。
約束の時間にはだいぶ早かった。
声を掛けようかどうかと迷った。
だが折角早く来たのだから今回も間違いなく時間を厳守したことをTravis氏に示すことにした。
こちら側を振り返り僕の姿を見つけるとTravis氏は実に嬉しそうな表情を見せた。
「いやぁ、だいぶ早いね。僕も少し前に着いたばかりなんだけれど。約束の時間の30分も前に着いちゃってね」
そう言って笑った。
そして「なんで時間厳守なんて書いたかというとね、この店には一番乗りじゃないと座れない席があるんですよ。
でね今日はそこの席じゃないと絶対にダメなんですよ、僕としては。
それにしても開店30分前は早過ぎたね。
僕が依頼したのは17時だし、その約束は守らないといけないね。
僕はここで場所取りをしているから、銀ブラでもして20分ぐらい時間を潰してくる?」
と提案をしてきた。
最後の依頼だとしても、契約時間を曖昧にしてしまうことは僕の意にも反した。
提案を受け入れ頷いた。
「じゃ、5分前ぐらいに戻ってきてください」
Travis氏の言葉を受け路地を戻り並木通りへと出た。
だが地理感の無い僕には銀座をどう歩いたらいいのか全く分からなかった。
周囲に立ち並ぶビルの店舗は、何処も僕が気軽に立ち寄れるような雰囲気ではなかった。
仕方がないので迷わないよう、並木通りを往復することで時間を潰した。
5分前に店の前に戻ると御客とおぼしき数名が並んでいた。
僕は列の先頭に立つTravis氏の隣に、後ろの人達に頭を下げてから並んだ。
その時心の中では実は僕も30分ぐらい前には来ていたんですよと、意味の無い言い訳を呟いていた。
17時。
一人では間違いなく躊躇してしまうだろう、大きなブローチの様な看板が掛かっている茶色のスチール製のドアを開け、日本史の教科書に出てきそうな雰囲気の階段を降りる。
するとその先には、一世紀ほどタイムスリップしてしまったのではないかと思える空間が広がっていた。
錨を連想させるような、無骨だけれども温かみのあるシャンデリア。
L字型の木製カウンターは熟成という表現がぴったりな風味を醸し出している。
カウンターの中に立つバーテンダーの白髪の紳士は威厳と親しみとを纏い、僕たちを迎えてくれた。
今まで味わったことが無い、それでいて懐かしい記憶を連想させるような不思議な感じだった。
Travis氏は店の一番奥の席に腰かけカウンターの上で腕を組むと、
「ここの席。この席で最後は話したかったんだ」
と言って壁に掛けられた三枚のポートレートを見つめた。
「織田作之助、坂口安吾、太宰治。青春時代に僕が貪り読んだ作家三人。
彼らの存在が僕を支えてくれていたし、彼らの作品に僕は縋っていたんだな……。
でねこの一番右側のこの写真なんだけれど、これ、見たことある?」
以前にテレビで見たことがある太宰治の写真だった。
僕が頷くのを見ると、
「もしかして、リョウ君も文学青年だった!?」
と一段高いトーンで問いかけてきた。
だが僕は本をあまり読まない。
少々申し訳ないと思いなが首を振った。
「あ……そうですか。
それは残念……あ、でね、この席。
ここがこの写真の席なんですよ。
太宰治が写真の中で座っている場所がここなんですよ」
そう言ってジャケットの内ポケットから煙草を取り出すと、ジッポで火をつけ満足そうに煙草を燻らせた。
太宰治を昔の有名な小説家だとしてしか認識のない僕にも、氏のこの席への拘りはなんとなく伝わってきた。
「では、注文しましょうか。
あ、ここはメニューが無いんですよ。
リョウ君はやっぱり烏龍茶かな?」
このような場所で烏龍茶を飲むことは、無粋であるという事は僕にも分かった。
それにTravis氏からも、最後だから一緒に飲みたいというオーラも発せられていた。
だけれど僕はアルコールを飲むと体調が悪くなってしまうのだ。
僕には頷くという選択肢しか無かった。
「分かりました」
やはり残念そうだった。
「えっとじゃあ僕は、チャーリー・チャップリンにしようかな」
注文をすると、白髪の紳士はまったく無駄のない滑らかな動きでカクテルを作った。
その動きに僕は魅了された。
人が何か作業をしているのを見てのはじめて感じる感覚だった。
僕の前には茶色い烏龍茶。
Travis氏の前にはルビーのように美しいカクテルが置かれた。
そのグラスを見つめながら、
「これはスタンダードなカクテルなんですけどこれは一味違っていて、ここに来ると必ず飲むんですよ。
スタンダードだけれどもここでしか逢えないカクテル。
赤いドレスの似合う魅惑的な女性の様なカクテルなんですよ」
と言った。
そして、
「では、僕たちの出会いと別れに乾杯」
と言ってグラスを小さくぶつけた。
カクテルを味わう様子を観察する。
横顔から満足感が滲み出てくるようだった。
「うん。これだ。間違いない。
リョウ君、暫くこのお酒を飲みながら写真を眺めてもいいかな?」
もちろんだった。
Travis氏はタバコとカクテルとを交互に味わいながら、三枚のポートレートを眺めた。
その様子を僕は隣に座って眺めた。
静かでゆっくりとした時間だった。
タバコ二本とカクテルとを飲み終えると再び同じカクテルを注文した。
そして、
「では、今日は僕の事をお話ししたいと思います。
といっても個人が特定されるようなことは話さないので、安心してください。
僕は見ての通り50代のオジサンです。
あ、もっと老けて見えるかな?
よく老け顔だって言われるんですよ。
髪が薄いからかな……あ、そのことは置いておいて、僕はバツイチです。
30代後半に結婚して中学生の娘が一人います。
娘とは月に一度ご飯を食べに行っています。
それが僕の生きる支えです。
リョウ君の座る人もそうだったけれど、もう終わってしまうからね……。
娘とのお食事会も嫌だと言われていつ終わってしまうかわからないです……。
あ、すみません。
話を戻しますと離婚の原因は僕にあります。
僕から離婚を切り出しました。
ほとんどの人は奥さんに愛想を尽かされたと思うんですが違うんです。
彼女はそんな人ではありません。
僕がいけないんです。
僕が耐えられなかったから、結婚生活は5年で破綻してしまったんです。
僕が壊してしまったんです。
彼女を嫌いになったわけではありません。
家族生活を維持すること、共同生活を続けていくことに耐えられなくなってしまったのです。
彼女は優しくきちんとした人でした。
家事全般に不満を持ったことはありません。
100%僕がいけないのです。
僕は子供の頃から一人を好む性格でした。
人間嫌いなのではありませんが一人が好きでした。
友達も少しですがいます。
なので本当の人間嫌いなのではありません。
ただ普通の人よりも、といっても何を基準に普通と定義すればいいのかは分かりませんが、一人を好むこと、一人で過ごす時間を大切にすることは確かです。
彼女とは3年ほどお付き合いしてから結婚をしました。
彼女はさっぱりとした性格でべたべたするタイプではなかったので、彼女とならば結婚生活を維持していけるかもしれないと思ったのです。
ですがお付き合いしていた頃のように、週に一度逢うというわけではありませんからね、結婚生活は。
一週間に一度会う事さえ少なからず負担に感じていた僕には、所詮結婚なんて夢物語だったんです。
身の丈を知らず彼女と娘を不幸にしてしまいました……。
5年の結婚生活の中で何度も何度も、こんな自分を変えようと試みました。
ですが性格はそんなに簡単には変えるものではありません。
無理をすればするほど、彼女や娘と楽しそうに時間を過ごそうとすればするほど、僕の心の中では一人になりたいという渇望が強くなっていきました。
性格を変えることが無理ならば環境を変えようと試みました。
狭いマンションでしたが一人で過ごせる書斎をつくりました。
ですがその書斎の中に居ても、彼女や娘の声は聞こえてきます。
その声を聴きながら僕はこんな勝手な事をしていていいのか!?
家族と触れ合わなければならないのではないか!?
と心の声が僕を責め立てるのです。
では家にいる時間を少なくすればいいのではないかと、上司にお願いしてまで仕事量を増やし、会社で残業をしました。
仕事が終わっても街をふらつき、赤提灯でだらだらとお酒を飲んで過ごしました。
でも心の声は同じく僕を責め立てました。
父親としての責務を果たせ! この、甲斐性無が! と。
そんな生活を続けていくうちに、結婚生活を維持するという事への嫌悪感が澱のように溜まっていきました。
この気持ちにはどう足掻いても抵抗することは出来ませんでした。
そしてこのまま結婚生活を続けていたら僕は彼女と娘を憎んでしまう。
そういうところまで僕は僕自身を追いつめてしまったのです。
残された道は一つしかありませんでした。
それが離婚です」