第二十六話

小説「beside-座る人」:第二十六話

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食事が運ばれて来るまでの間、僕たちはパソコンで会話をした。

Kさんは強引に彼氏役を依頼したことを謝罪しその理由は後で必ず説明するといった。

謝罪する女性

 

僕はその説明を聞きたいという気持ちはあったが、どうしても聞きたいと言うほどではなくなっていた。

 

 

店の入り口付近に立つ僕を見つけたときに弾かれる様に手を振り見せた笑顔。

その所作は純粋な喜びに満ちていたと感じていたからだった。

人にこれ程喜ばれるという経験を僕はしたことがなかった。

 

先程のウエイトレスが食事を運んできた。

僕たちの事は勝手知ったるという様子で淡々と配膳をし、無言の笑顔を後に去って行った。

ウエイトレス

 

その様子を見て、僕たちは合わせ鏡のような苦笑いをお互いの表情に認めた。

 

ウエイトレスの彼女を騙していると言うような罪悪感と、その彼女から受ける意識していないであろう差別行為。

そのような環境を作り出してしまう、しまわなくてはならない僕たちの関係性。

僕の気持ちは脱水後の槽内の洗濯物のように複雑だった。

 

Kさんが指先でコツコツとテーブルを叩いた。

物思いに沈んでいた僕がハッと顔を上げると、Kさんは嬉しそうに目の前に置かれているペンネを指差し右手で食べる素振りをした。

ゴルゴンゾーラとクルミのペンネ

 

僕が頷くとKさんは胸の前で両手を合わせ唇を『頂きます』と動かした。

そして小躍りするようにフォークを取り、ペンネを一口口の中に運んだ。

味を確かめるように数回モグモグと口を動かすと、大きな目を更に見開いて『おいしい!』と唇を動かした。

 

その様子を見て僕も初めてペンネというものを食べてみる。

確かに美味しかった。

この料理、味付けが美味しいのだが、僕はペンネとはこんなに美味しいものなのかと、素朴な気持ちで感心してしまっていた。

 

一人で食事をするときはもちろん無言であるけれど、二人で無言の食事をするというのは初めての体験だった。

だがここには気まずさはなかった。

食事をしながら時々お互いの表情で会話をする。

言葉を話さない事が許されているからこその穏やかな時間だった。

なごやかな時

 

食事を終えると僕たちはコーヒーで食後の余韻を楽しんだ。

満たされた気持ちで腕時計に目をやるともう40分も時間が経っていた。

 

確かKさんは放送時間は30分だと話していた。

座る人の契約は原則1時間である。

どうしようという気持ちで視線を送るとKさんは小首をかしげた。

本当に分かっていないのだろうか? という思いで僕は腕時計を指差す。

腕時計

 

Kさんはアッと言う表情で口元に手を当てると、慌てて放送の準備を始めた。

鞄からWebカメラを取出しノートパソコンに接続し、ワードを立ち上げてブラインドタッチで素早く文章を打ち、僕の方に画面を向けた。

 

そこには、

『ごめんなさい! すっかり時間の事を忘れてしまっていました!

すぐに放送を始めます。

リョウさんは先程の打ち合わせ通りで大丈夫ですから。

決してこれ以上は無理なお願いは致しませんので安心してください。

ではよろしくお願いします』

と書かれていた。

パソコンの画面

 

僕は頷くと『アッ!』と思った。

眼鏡とマスクが無い!

慌ててその旨をゼスチャーでKさんに伝える。

 

Kさんもアッ! と言う表情をして、慌てて鞄の中から水色の袋を取出して僕に手渡した。

袋の中から黒いセルロイド眼鏡と白いマスクを取出し装着する。

僕のその様子を確認するとKさんは左手でOKサインを作り放送を開始した。

 

僕はKさんの向かい側に座っているので、パソコンの画面の様子は分からなかった。

暫くするとKさんの表情がふわりと明るくなり、キーボードをリズミカルに打ち始めた。

赤いノートパソコン

 

前回の経験からリスナーの人達が訪れ、お互いにあいさつを交わしているのだろうと思った。

Kさんは時々口元に手を当てながら微笑んでいる。

実に楽しそうだ。

 

そのKさんとは対照的に僕の緊張はじわじわと高まっていた。

眼鏡とマスクで僕の素性がばれる可能性は極めて低いとしても、人前に出ることが大の苦手である僕が、ネットの舞台上に立つのだ。

初回のKさんとの座る人の後、僕なりに○×生放送というものを調べ、放送システム、コミュニティーとレベルいう概念について勉強をした。

 

コミュニティーレベルが高い=多くのリスナーが参加している、多くの視聴者がいる、ということらしいのだ。

Kさんのコミュニティーのレベルは高くはない=少数のリスナーに支えられているという事は理解していた。

だが確実にリスナーは存在している。

何処の誰かもわからない人達だが、やはり人前に出るという心理的負担は大きかった。

緊張する男性

 

放送開始から5分ほど過ぎると、Kさんが手招きをして隣の席を指差した。

彼氏と言う設定なのだからもっともな事なのだろうが想定外だった。

勝手に一人でカメラに映るものだと思い込んでいたのだ。

 

Kさんと僕は二人で並んで画面に映るのだ。

カップルのように。

そういう設定なのだからそれは至極当然なのだ。

彼氏と彼女

 

僕は黒板に書かれた、解答方法の分からない数学の問題を指された中学生のように椅子から立ち上がった。

そして何故だかテーブルを両手で伝うように移動し、椅子の足に爪先をぶつけながら腰掛けた。

Kさんが『大丈夫?』と言いたげな表情で僕を見つめている。

 

僕は眼鏡とマスクの位置を確認しながら小刻みに頷く。

そしてパソコンとカメラの位置を確認する。

パソコンの画面とカメラはまだ僕の方には向いていない。

深呼吸をする。

 

気持ちを整えるためにこの状況を客観視しようと思い夜景に視線を巡らせてみる。

表参道の夜景

 

だが綺麗であろう夜景も、暗闇に光る電球の群れとしか僕の心には映らなかった。

助けを求めるようにKさんを見つめる。

Kさんの左手が、僕の右太ももの上に添えられた。

ポンポンと二回、軽く叩かれた。

 

そうだ。

僕一人ではないのだ。

Kさんがいるではないか。

僕は喋る必要はなく頷くだけでいいのだ。

 

緊張が少し和らいだ。

大きく息を吐き意識して肩の力を抜き、Kさんを見つめ返して頷く。

Kさんはニッコリと微笑むと、キーボードを叩きパソコンの画面と共にWebカメラを僕の方に向けた。

微笑む女性

 

パソコンの画面にKさんと僕が並んで映し出された。

不思議な光景だった。

僕はドキドキしながらも画面の中に引き込まれていった。

 

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