「これは僕の大好きな同潤会アパートの写真集です。
同潤会アパートとは、財団法人同潤会によって1920年代から1930年代に東京と横浜の16ヵ所に建てられたアパート群の総称です。
最も有名な廃墟、軍艦島の鉄筋コンクリート集合住宅が1916年に建てられた日本で最初の鉄筋コンクリート造集合住宅です。
ですから、同潤会アパート群の古さ、歴史的重みが分かると思います。
で、ただ古いだけではないんです。
アパート全体に素敵な作りが微に入り細に入り施されているんですね。
一つ一つに個性のある扉、ステンドガラスで彩られた飾り窓、モダンな細工が施された階段の手摺。
現代建築の十把一絡げ方式で作られたアパートやマンションには見られない、温かい美しさがこのアパートにはあるんです。
で、それに経年劣化によって憂愁が加わり、僕の原風景に対する郷愁のようなものを掻き立てられるんですね……たまらないんですよ、これが。
で、同潤会アパートの中で僕が一番好きなのが、2002年に解体されてしまった清砂通りアパートなんです。
その中でもこの塔屋のある1号棟が実に個性的であり見る物を惹きつけます。
角のカーブを描いているこの部分もまたたまりません……」
Travis氏の話は延々と続いた。
大塚女子アパートは、建物内にフルーツパーラーや雑貨屋等の店舗が併設されていて、当時としてはきわめて贅沢な作りであったこと。
最後に残された上野下アパートも老朽化が激しいため2013年に建替えが決定してしまったことなど。
僕はTravis氏の同潤会アパートに対する熱意と知識量に圧倒された。
赤ワインを一本飲み干したところで、ようやく話の流れが止まった。
「あ、話に夢中になっていたら、いつの間にかワインが空になってました。
今度は白ワインを飲もうかな、あコーラおかわりしますか?」
Travis氏は店員を呼び、白ワインのボトルとコーラを注文した。
そして、腕時計に目をやると、
「あ、もう40分も経っちゃったのか。
じゃ、ここで気分転換というか〆の話として、廃墟の話をしようと思います」
と言って、鞄から青いファイルを取り出した。
そして「これは僕がネットで集めた大好きな廃墟の画像をプリントアウトして作った、オリジナル写真集です」と言って僕の方に差し出した。
ファイルを受け取ろうとして手を伸ばすとファイルを引っ込め、自らファイルを開いた。
僕は宙に浮いた手をコーラのグラスに移した。
酔っているのだと分かっていても、なんだか馬鹿にされたような薄い屈辱感を感じた。
僕はこのまま同潤会アパートの話でいいと思っていた。
だが、アルコールで自我が強化されたTravis氏には僕の意向を確認する様子は見られず、氏の指す方向に従うしかなかった。
Travis氏は運ばれてきた白ワインをグラスになみなみと注ぎ、喉の渇きを癒すかのようにゴクゴクト飲み干した。
そしてファイルを閉じて手に取り、愛おしそうに眺めてからもう一度ファイルを開いて話し出した。
「僕の主観ではありますが、廃墟好きは大きく分けて探検系と鑑賞系の二つに分かれると思います。
で、僕は廃墟はあくまで鑑賞するものだと思っています。
廃墟は人工物と自然の融合によって作り出された芸術作品です。
人工物が自然に帰化していく過程。
僕はここに惹かれるんです。
そして僕は、廃墟を木造系とコンクリート系の二つに大きく分けて捉えています。
で、僕が好きなのはコンクリート系です。
あ、別に木造系が嫌いな訳ではなく比較の問題です。
で、コンクリート系をさらに細分化するとですね、鉱山系、病院系、ホテル系、学校系などに分けることができるんです。
で、僕が最も好きなのは鉱山系の廃墟です。
そして、その中でも東北三大鉱山といわれる、尾去沢鉱山、田老鉱山、松尾鉱山が特に好きで、この三つの中でも秀逸だと思っているのが、岩手県にある松尾鉱山緑ヶ丘アパート群です。
特に、冬のこの写真なんか……もう……幽体離脱して、どこかに飛んでいってしまいそうなほどの感銘を僕は受けてしまいます」
滔々と話すTravis氏。
この話ができる事、この話を関心を持って聞いてくれる人が居るという事が、嬉しくて堪らないという様子だった。
淀み無い解説を聞きながら写真を眺めているうちに、契約時間を10分も過ぎてしまっていた。
氏は大きなゼスチャーも交えて話し続けている。
僕は迷った。
すぐさま氏の前に腕時計のされた左腕を差し出すべきか、話の一区切りがつくまで待つべきか。
逡巡しているうちに更に5分が過ぎてしまった。
だいぶ酔っている氏が気付くことは期待できない。
僕は申し訳ない気持ちで一杯になりながら、腕時計の巻かれた左腕を差し出した。
「え? あれ! もうこんな時間なんだ。いやぁ、あっという間だった」と言って、グラスにワインを注ぐと「乾杯!」と言って、ほとんど空になってしまっているコーラのグラスに、ワイングラスを当てた。
僕が帰り支度を終えて立ち上がると「写真集を肴に、もう少し飲んでいきます」と、氏は言った。
僕は小さく頭を下げて別れの挨拶をし、出口へと向かった。
途中振り返るとTravis氏の背中が見えた。
その背中に孤独という文字ぼんやりと浮かんで見えた。
店を出ると人の流れにのって駅へと向かった。
新宿駅構内は人ごみに溢れている。
群衆の中に紛れ込んでいる時に感じる孤独。
この孤独感とは違う、もっと深い孤独をTravis氏は抱えているように思えた。