第五話

小説「beside-座る人」:第五話

第五話
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それから僕は週末には文子さんを訪ね、お昼に食事の介助をするようになった。

スプーンに乗せるお粥の量、おかずとお粥の交互配分のテンポなど、僕なりにどうしたら文子さんが一番美味しく食べやすいかを考えて、食事介助をおこなった。

 

でも文子さんの様子は変わらなかった。

それでも僕はこうして文子さんに関われることが嬉しかった。

今まで僕は、文子さんから与えられることしかなかった。

 

今初めて、僕は文子さんの役に立てている。

文子さんにはそれが分からないかも知れない。

自己満足だと思う。

それでも僕の心は満たされていた。

ちょうど良い温度の温泉にゆったりと浸かっているような感覚だった。

温泉

 

石渡さん以外の介護職員の人達にも話しかけられるようになった。

挨拶程度の関わりから、世間話をするようにまでなった。

 

正直、僕は世間話というものが苦手だった。

話の内容如何はそれほど重要ではなく、人間関係の潤滑油であるのだとは分かっていた。

だけれど、僕は無理してまで天気の事やニュースの事などを話す必要はないのではないかと思っていた。

そして、今まで職場ではずっとそうやって過ごしてきた。

 

でも、文子さんの隣に座っている僕は違っていた。

戸惑いや面倒な感じが無いわけではない。

だけれど、無愛想に返事を返すだけではなく、振られる話に対して短い言葉だけれども笑顔で答えていた。

 

文子さんの隣。
そこに居ることで僕は安心して存在することができたのだ。

安心感

 

文子さんのもとに通い始めて8ヵ月目の冬の日の事だった。

いつものようにステーションの前を通り、廊下ですれ違う職員と挨拶を交わした。

その様子に違和感を感じていながらも、あまり気にかけずに文子さんの部屋を訪ねた。

 

四人部屋窓側右側のベッドまわりは不自然に綺麗に片付けられ、文子さんのぬくもりは消え去っていた。

老人ホーム ベッド

 

「部屋が変わったのかな?」と思った。

以前、施設側の事情で居室変更をされる利用者の方を見たことがあった。

 

タイヤ付のベッドと床頭台を押して丸ごと移動する。

その後をお年寄りの方が不満を溢しながらついていく。

住み慣れた我が家を強引に奪われてしまうようで、可哀想だと思ったことを憶えていた。

どの部屋に移ったのかを確認するためにステーションに行こうとすると、ちょうど部屋に入ってきた石渡さんに会った。

 

「あ、こんにちは」僕は笑顔で挨拶をした。

「こんにちは」石渡さんの表情は硬く、視線は僕を探るようだった。「お聞きしていないんですか?」

「え?」何のことか見当がつかなかった。

石渡さんは真っ直ぐに僕を見つめて言った。

「高島さん、昨日脳梗塞で亡くなられたんです」

 

気が付くと駅に向かって歩いていた。

雑踏

 

いつもは施設前の停留所からバスに乗って駅へと向かうのだが、そうしなかった。

黙々と歩きながら、文子さんの死という現実を反芻した。

 

受け入れられなかった。

夢を見ているに違いないと思った。

酷い夢だ、酷すぎる。
早く醒めろ……。

 

突然衝撃を受けた。

ガードレールにぶつかり、アスファルトに転がった。痛い。

夢ではないのだ。

よろよろと起き上がると、また駅に向かって歩き出した。

 

駅に着くと、自宅方向とは逆のJR中央線の上り電車に乗り込んだ。

駅のホーム

 

家に戻り部屋で一人になりたくなかった。

今までずっと一人だったのに。

電車が東京駅に到着すると、行先も確認せず電車に乗り込んだ。

その電車が終点に着くと、また適当に電車に乗り込んだ。

 

そんなことを繰り返し、終電で辿り着いたのは千葉県郊外の駅だった。

駅を出ると、幹線道路沿いに24時間営業のファミリーレストランを探した。

30分ほど歩き、遠くに光る看板を見つけた。

誘蛾灯に引き寄せられる虫のようにとぼとぼと向かった。

 

店の中に入るとドリンクバーのコーヒーと灰皿をテーブルに置き、席に着いた。

窓際の喫煙席。

コーヒーを飲みながら機械的に煙草を吸い、窓の外を通り過ぎる車のテールランプを眺め、夜が明けるのを待った。

その時の僕は思考を止め、文子さんの死という現実から逃げることで精一杯だった。

車のテールランプ

 

朝になり、始発電車に乗って自宅へ向かった。

最寄り駅に着いた時は8時半を過ぎていた。

家に戻っていては仕事に遅刻してしまう。

僕はそのまま職場に向かった。

 

仕事は絶対に休みたくなかった。

それは、僕が真面目で堅物な人間だからではない。

文子さんの死をを理由にして、何かから逃げることはしたくないと思ったからだった。

 

それからの僕は、以前にも増して人と話さなくなった。

もともと口数の少なかった僕が、ほとんど人と話さなくなった。

仕事中ぼんやりとすることが多くなり、ミスが目立つようになった。

孤独

 

午後5時のサイレンが鳴り、倉庫内から事務所に戻ってくると、

「高島さん、また物品のチェックミスがありますよ」ベテラン事務職員の女性が呆れ顔で伝票を突き出した。

黙って頭を下げて伝票を受け取ると、倉庫内に戻るドアに向かった。

背後ではあからさまに大きな溜息が聞こえた。

 

こんな状態で数週間過ぎたある日の昼休みの時だった。

倉庫の向かいにあるコンビニにタバコを買いに行こうと出口に向かって歩いていると、課長に呼び止められた。

 

課長の板尾さんは僕がアルバイトのころは主任だった。

無愛想な僕の面倒を何故かよくみてくれた。

高校卒業後に就職することを提案し、上層部に掛け合ってくれたのも板尾さんだった。

 

「高島、ちょっと来てくれ」

何故呼ばれたのか、何を言われるのかは分かっていた。

黙って後に付いていき部屋に入った。

事務所のパイプ椅子

 

「ま、座れ」板尾さんが指した椅子に腰かけた。「何かあったのか?」

冷蔵庫から缶コーヒーを2本取り出し、1本を僕に手渡した。

「いえ、何も」

「体調でも悪いのか?」

「いいえ」

「……そうか。悩みでもあるのか?」

「いいえ」

板尾さんは腕を組み、小さく頷きながら黙って僕を見つめている。

 

気まずい沈黙。
早く解放して欲しい。
それだけを願っていた。

逃げ出したい気持ち

 

「高島、お前、有休取ったことなかったよな?」

「え? あ、はい」

予期せぬ方向からの質問だった。

「2~3日有休を取れ」

「え? いえ、でも……」

「今すぐ、事務所に行って有休届を取ってこい」

「え?」

「で、ここで届を出せ。すぐに判子を押すから」

口調に怒気は感じられなかった。

だが、有無を言わせぬ押しがあった。

 

僕は観念して事務所に用紙を取りに行った。

課長室に戻ると、

「今週の公休はいつだ?」と、板尾さんが訪ねた。

「水曜です」

「水曜……明日か。じゃあ、有休は3日取れ」

「え?」

「木、金、土と取れば、明日の公休と日曜を合わせて5連休になる。温泉にでも行ってゆっくり休んで来い」

 

僕はとても温泉になど行く気分ではなかった。

見当違いだけれど不器用な優しさに感謝し、従うことにした。

 

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